|
|
結婚
|
|
結婚観
聖書に従えば、結婚とは、男女は相互いのために生きるべしという神の意志の最も明らかな表明である。この間題に関し、イエスは二つの創造の物語に立脚して、それを直接結婚問題に適用し給う。ゆえに、なぜ男女両性が存在するかという間に対する最も深い意味の答を見出すのは結婚においてである。聖書に従えば、結婚とは生涯相携えて行きたいと願う二人の人の身体的および霊的な結合にほかならない。創世記二章に「二人一体となるべし」とあるが、それは「彼らはただ一つの存在、ただ一つの生命となるべし」という意味である。
ただし聖書の「肉」という語は、「人生」という意味で、単に狭い意味での肉体的(または・な肉を意味するのではない)パウロがこの言葉を創世記からとってキリストと教会とに適用したのもそのためである。それは割引なしに全面的な結合の問題であって、人はすべてを得るためにすべてを与えるのである。結婚の目的は極めて親密かつ強力な生命の共有にあり、ついにはその二つの存在が文字どおり不可分になることである。かように結婚は、ある意味ではたしかにそれ自身の中に目的と存在理由とを持っている。言い換えれば、結婚は神の栄光に仕えてはならないというのではなく、心的留保なく、ある他の人と結合したいという願望以外のいかなる動機もなくして結婚することが必要であるというのである。ただ人が求めるならば、その結合は全面的結合であり、そのからだはとなるであろう。
真の結婚は消できないものである。真正なる結婚と魂と霊の結合においては、生命全体がつながれている。人は自分の一部を与える時自由でいることはできる。しかし全部を与えてしかも何事も起らなかったように、ない。離婚を表わす聖書の言葉の一つは背信である。は、ならないというそエスのみことばから、それを受け取ることカできるー以上のごときが神の秩序である。イエスのみことばに従えば、それが結婚というものであった。しかし堕罪以後、また、すなわち、法律上の契約漕快楽ないしは慰安のための制度。しかしイエスは最初の秩序の権威を確証し給う。神の国にはいらんと欲する者は、的な結婚以外の結婚を認めないであろう。u結婿を是認するよりはむしろこれに反対の警告を含むごときイエスやパウロの言葉が二、三あることは事実である。しかしそれは他の違った結婚観ではなく、むしろ一つの留保条件を意味するのである。結婚はこの世のものであり、この世再び自分の自由4ることはでき「神が合わせられたものを、人は離してはじめ「原始は」、すなわち堕罪以前人間はそれを全く違ったものにしてし一時的な関係にしてしま全面は過ぎ去るものである。神に全く仕えんがためには、その終末的な時や例外の奉仕のための戒めは、わごとく独身のままでいるように召されている人は若pカ㌔カよし場合がある。しかしわれの大部分には与えられない。パウロのあるども島,の者にはもう口二レノ,邸{川つの真理が該当する。すなわち、「人がひとりでいるのは良くない」。
この聖書の結婚観は確かに最高にして最も真実なものであるが、自らの不確かさと利己主義とのゆえにそれを実現しえないわれわれ憐れむべき人間にとって、それは一体いかなる意味を持ちうるであろうか。われわれは決して自らを完全に与え得ないがゆえに、実際はかかる聖書的な結婚は存在しない。妻に対して無条件に自分を与える男性がいるであろうか。また夫に対して無条件に自分を与える女性がいるであろうか。キリストと教会との一致にも比すべきその、完全な一致は、どこに存在するであろうか。しかしもしそうであるとすれば、どうしてわれわれはかかる見方に従ってわれわれの生活を形成してゆくことができようか。それはわれわれの力の及ばないところであり、われわれの生活の現実を無視しているとも思われる考え方である。これらすべての問に対する答は、結婚は神の意志、神の戒めまた賜物であるところの神の秩序であるということである。われわれは確かにかかる秩序によってさばかれる。しかしそれは神の恩恵であり、われわれの生活に対する神の関与であり、われわれの無秩序の神による編制であるがゆえに、われわれは同時にそれによって助けられ、支えられる。信ずる者として結婚生活にはいる者、彼らの結合が、神によって与えられたものであるということを信ずる者は、彼らを助けてその結婚を支え、深めるものはまさしく神の秩序の非妥協性であることを発見する。
彼らが勇気を失いかげる時、もはや自らの中に彼らの結婚を高める力を失った時、それを神の意志や彼ら自身の希望に一致させる力を見出せなくなった時に、彼らは、「あなたがたを召されたかたは真実であられるから、このことをして下さるであろう」と告げられる。カール・バルトは次のように述べている。「結婚の秩序に関しては、あらゆる神の秩序におけると同様、福音書が語っているとおり、正しき者にも正しからぬ者にも等しく神の与え給う太陽や雨と同じことが該当する。すなわち、神の秩序は良き者にとっても悪しき者にとっても存在し、それは問を提出すると同時に答をも与える。人は全く責むべきところなく完全だと思われたてる結婚を楯にとって,神の秩序から逃れても容易にそのさばきを免れうると思ってはならない。神の秩序はまた、支援、慰め、確認、指示を意味する。それは極めて実際的な真理、避くぺを心理学上または生理学上の誤謬に関する最も詳細な忠告にもまして実際的な真理である」。ここにおいては神の前に生きる生活が全く人間的な水準による生活とば根本的に異なることが、、他の生活の分野におけるよりも明瞭になる。キリスト教でいう結婚は、小説や性科学に関する書物の中に書かれている結婚とはただその名称を共有するのみである。その相違は、キリスト者は真の結婚の困難さ、悲劇、不可能性を知らないのでなく、孤立無援でないこと、すなわち彼らの結婚には彼らを援助する第三者があるという点である。その同じ理由で結婚後も結婚の準備においても、祈りを一つにすることがいかに重要であるかは、いかに強調しても強調し足りないところである。
|
|